知識が増えるほど、なぜ人は硬くなるのか。学びが本当に深まると「わからない」に戻ってくる
学びは、人を柔らかくするはずだと僕は思っている。
なのに、なぜ人は学べば学ぶほど、硬くなることがあるのだろう。
これは、僕がずっと漠然に思ってきた問いだ。
例えば、こういった疑問です。
たくさん本を読んでいる人。長く仕事をしている人。専門的な知識を持っている人。こういった方達は、人より多くの経験をしている。
本来なら、そういう人ほど、いろんな考え方を理解できるようになるはずです。
「そういう見方もあるよね」「僕が知らないだけかもしれない」「それ、興味深いね」
そんな言葉が、どんどん増えていくはずだと思うんです。
なぜなら、学ぶということは、世界が自分の想像よりずっと広いと知ることでもあるからです。
一つ知れば、その向こうに十個の知らないことが見つかる。十個知れば、その向こうに百個の知らないことが見えてくる。
だから、本当に学べば学ぶほど、「俺は知っている」ではなく、「俺は、知らないことだらけだな」になっていくはずなんです。古代ギリシャの哲学者ソクラテスが「無知の知」という言葉を残していますが、それも、きっと同じことを言っているんだと思います。
ところが、不思議なことに、逆へ向かってしまうことがある。
知識が増えるほど、人の話を聞かなくなる。経験が長くなるほど、新しく入ってきた人の意見を軽く見る。少し成功すると、「それは前にやったから」「そんなことは分かってる」「そんな簡単な話じゃないんだよ」という言葉が増えていく。
これは、なぜなんだろう。
たぶん、原因は一つじゃない。色んな要因が積み重なっていると思う。
でも、僕には一つだけ仮説があります。
それは、「知っている」が、「できている」に変わった気がした瞬間、人は止まる。ということです。
たとえば、「人の話は最後まで聞いた方がいい」。これは、多くの人が知っています。「相手の立場になって考えることが大切だ」。これも知っています。「失敗から学ぶことが大切だ」。これも知っている。「感謝した方がいい」「謙虚でいた方がいい」「人を見た目で判断してはいけない」「自分と違う意見にも耳を傾けた方がいい」。たぶん、大人ならほとんど知っています。
では、それができているか。
ここから急に、話が変わってきます。
僕自身もそうです。「分かっている」と思っていることほど、実はできていないことがある。
しかも厄介なのは、知らないことなら、人は学ぼうとするんです。でも、「それ、知ってる」と思った瞬間、学ぼうとしなくなる。ここに、ものすごく大きな落とし穴がある気がしています。
この落とし穴に、僕自身も何度も落ちてきました。
僕は長く物を作る仕事をしてきました。家具の仕事を始めたときも、レザーの仕事を始めたときも、最初から何かを知っていたわけではありません。むしろ、知らないことだらけでした。
だから、見るんです。聞くんです。試すんです。失敗するんです。「あれ?なんでだろう」と思って、またやってみる。
初心者の頃って、恥ずかしいくらい何も知らない代わりに、ものすごく柔軟なんです。正解を持っていないからです。正解を持っていない人間は、「こうしたらどうなるんだろう」と考えられる。
ところが、経験を積むと少しずつ変わってくる。「これは、こういうものだ」が増えていく。
もちろん、それ自体は悪いことではありません。経験というのは、何度も転んだ人間が手に入れた地図みたいなものだからです。ここは危ない。こっちは遠回りだ。この方法ならうまくいく。それが分かるから、昔より速く進める。だから経験には価値があります。
でも、地図を持った人間には、一つだけ危険がある。地図に載っていない道を、「道ではない」と思い始めることです。
僕は、ここが怖いんです。
長く仕事をしていると、自分なりのやり方ができます。デザインでも、写真でも、映像でも、商売でも、「こうした方がいい」というものが、僕の中にもたくさんあります。それは、何十回、何百回と失敗してきた結果でもあります。
だから当然、若い人や初心者のやり方を見ると、「いやいや、それじゃダメだよ」と思うこともある。たぶん実際、僕の方が正しいことも多いと思います。
でも。
ここで最近、もう一つ考えるようになりました。
「僕の方が正しい」ということと、「相手から学ぶものがない」ということは、まったく別の話なんじゃないか、、、ということです。
経験の浅い人は、技術では僕に負けるかもしれない。知識でも負けるかもしれない。でも、その人には、僕が失ってしまったものがあるかもしれない。
「なんで、こうするんですか?」という疑問。「こっちの方が面白くないですか?」という発想。「普通に考えたら、こっちじゃないですか?」という、何のしがらみもない感覚。
長くやっている人間からすると、「いや、それはね……」と説明したくなる。でも、その「いや、それはね」の中に、自分がいつの間にか作ってしまった思い込みが混ざっていることがある。
これは、仕事の話だけではありません。子どもと話していても、よく感じます。
大人は、子どもよりたくさんのことを知っています。でも、だからといって、大人の方が世界を正確に見ているとは限らない。
子どもは時々、大人が何十年もかけて複雑にしてしまったものを、ものすごく簡単な言葉で突いてきます。
「なんで?」
この一言です。これが結構、ビクビクします。「なんで、そうしなきゃいけないの?」と聞かれて、「そういうものだから」としか答えられないことがあります。
その瞬間、あれ?と思うんです。これは本当に必要なことなのか。それとも僕が、必要だと思い込んでいただけなのか。
子どもは何も知らない。でも、何も知らないからこそ、僕たちが「当たり前」という名前をつけて見えなくしてしまったものを見ることがある。僕は、これは立派な知性だと思っています。
だから僕は、「知識」と「知性」は、少し違うものなんじゃないかと思っています。
知識は、持っているもの。知性は、それを疑えること。そんな気がします。
自分が昨日まで信じていたものを、「本当にそうかな?」と、もう一度テーブルの上に置けること。自分より経験の浅い人に何か言われたとき、「いや、君は知らないから」で終わらせず、「待てよ。もしかしたら僕の方が見えていないものがあるかもしれない」と思えること。
これは、簡単そうで、年齢を重ねるほど難しくなっている気がします。
なぜなら人間は、知識だけではなく、その知識と一緒に「自分」というものまで作ってしまうからです。
長く商売をしてきた人なら、「俺は商売を分かっている人間だ」という自分ができる。長く物を作ってきた人なら、「俺は物作りを分かっている」という自分ができる。人から先生と呼ばれるようになれば、「自分は教える側だ」という自分ができる。
すると、知らないと言いにくくなる。「それ、分かりません」と言えなくなる。「教えてください」が言えなくなる。
これが、学びを止める一番怖い瞬間なのかもしれません。
知らないことが恥ずかしいんじゃない。「知っている人間でいなければならない」と思い込んでいる事の方が、ずっと怖い気がします。
僕にも、思い当たることがあります。
長く何かをやっていると、いつの間にか、「これはこういうもの」という前提が増えていきます。商売なら、「お客さんはこういうものを求めている」。デザインなら、「これはこう見せた方がいい」。動画なら、「こういう動画の方が見られる」。人間関係なら、「あの人はこういう人だ」。
そして怖いのは、それが過去に何度も当たっていることです。
間違った思い込みなら、どこかで壊れます。でも、何度か正しかった思い込みほど、壊れにくい。成功した経験が、次の成功を邪魔することがある。
これは面白い話だと思います。失敗は人を疑わせます。「やり方が違ったかな」と考えさせる。ところが成功は、「ほら、やっぱり俺は正しかった」と思わせる。
だからもしかすると、人間を頑固にするのは、失敗より成功なのかもしれません。少なくとも僕は、自分の中にそういう危険があると思っています。
では、どうすればいいのか。
答えは、拍子抜けするほど単純だと思っています。
初心者に教わることです。新しく来た人の言葉に、耳を傾けること。自分より経験の浅い人に、「どう思う?」と聞くこと。子どもにも聞く。若い人にも聞く。その世界をまったく知らない人にも聞く。
もちろん、全部を採用する必要なんてありません。経験者にしか分からないことは、確実にあります。
でも、ここで大切なのは、相手が正しいかどうかではないと思うんです。自分の中に、相手の言葉が入ってこられる余白を残しておくこと。それが大切なんだと思います。
僕はこれを、心の中に「空席」を作っておくようなものだと思っています。
全部の席に、「俺の経験」「俺の常識」「俺の成功体験」「俺の価値観」「俺の正解」が居座っていたら、新しい考えが入ってきても座る場所がありません。だから、数席は空けておく。「もしかしたら、僕が間違っているかもしれない」という席です。
僕は、この一席がある人を、知的な人だと思っています。
昔の僕は、頭のいい人というのは、たくさん知っている人だと思っていました。難しい言葉を知っている。本をたくさん読んでいる。何を聞いても答えられる。
でも今は、少し違います。
僕が「この人、頭がいいな」と感じるのは、自分の知らないことを、抵抗なく聞ける人です。「へえ、知らなかった」と言える人。しかも、それを恥ずかしがらない。むしろ、「なるほどね。もっと教えてくれる?」が、言える人。
そして不思議なことに、そういう人ほど、実際にはたくさん知っています。逆に、少し知った段階ほど、人は断定したくなることがある気がします。「絶対こうだよ」と言いたくなる。でも深く知ると、「いや、場合によるな」が増えてくる。もっと深く知ると、「僕にはまだ分からない」まで戻ってくる。
だから僕は、学びというのは、「分からない」から出発して、長い旅をして、もう一度もっと深い「分からない」に帰ってくるものなのかもしれないと思っています。
最初の「分からない」は、知らないから分からない。最後の「分からない」は、知ったからこそ、簡単ではないと分かっている。同じ言葉なのに、中身がまったく違う。
僕は、この二つ目の「分からない」を言える人になりたい、と思っています。
そして、その「分からない」に辿り着いた人ほど、知識の持ち方そのものが、違って見えてきます。
僕が年齢を重ねるほど感じるのは、人の深さは、知識の量より、その知識をどう持っているかに表れる、ということです。
知識は、道具です。ちょうど、包丁と同じです。使い方によっては人を助けるし、人を傷つけることもできる。知識を使って、マウントを取って、人を見下すこともできる。「そんなことも知らないの?」と言うこともできる。難しい言葉を並べて、相手を黙らせることもできる。議論に勝つこともできる。
でも、それは、知識が増えたのであって、人間が深くなったわけではありません。
僕はむしろ、学んだものを、自分を大きく見せるためではなく、人を理解するために使える人に惹かれます。知っているから怒らない。知っているから待てる。知っているから、違う意見に関心を持つ。知っているから、簡単に人を決めつけない。知っているから、「そうなる事情もあったのかもしれないな」と考えられる。
僕は、本来の学びというのは、人間をそちらへ連れていくものだと思っています。
だから、学びの深さは、柔らかさで測れる。僕は最近、そんなふうに思っています。
何冊読んだかでもない。何年やったかでもない。どれだけ難しいことを知っているかでもない。
自分とは違う考えを前にしたとき、どれだけ柔らかくいられるか。知らないものを見たとき、「そんなものはくだらない」ではなく、「なんだろう、それは?」と言えるのか。年下から指摘されたとき、「お前に何が分かる」ではなく、「確かに。そうかもしれない。そこは僕が見えてなかったな」と言えるか。自分の間違いに気づいたとき、言い訳を重ねるのではなく、「ああ、僕が間違ってた」と言えるか。
僕は、そこにその人の学びの深さが出ると思っています。
そして僕がこれまで出会ってきた中でも、本当に長く何かを続けている人ほど、意外と腰が低かったりします。もちろん全員ではありません。
でも、「あ、この人、本物だな」と僕が感じる人には、共通しているものがあります。人の話をよく聞く人。知らないことを恥ずかしがらない。年下にも普通に質問する。自分の失敗を隠さない。そして、自分を必要以上に大きく見せようとしない。
たぶん、もう大きく見せる必要がないんでしょうね。自分が何者なのかを、自分自身が分かっているからなんでしょう。だから、人に勝たなくていい。だから、柔らかい。
これは僕にとって、ものすごく格好いい大人の姿です。
そんな大人たちの背中を見るたび、僕は自分の年齢について、考えることがあります。
僕は56年生きてきました。
これから先、僕が怖いのは、何も知らないことではありません。むしろ、「もう分かった」と思ってしまうことです。
僕はこれからも、たぶんいろんなことを学ぶと思います。本も読む。AIとも話す。仕事もする。作品も作る。色んな人とも話す。子どもたちとも話す。知らない世界にも入っていく。
そして知識は、今より増えていくと思います。
でも、知識が一つ増えるたびに、自信だけが一つ増えていく人にはなりたくない。知識が一つ増えたら、「まだ知らないものがあった」という驚きや興味も一つ増やしたい。経験が一つ増えたら、「だから俺は正しい」ではなく、「この経験が通用しない場所もあるんだろうな」という余白も一つ増やしたい。年齢を一つ重ねたら、偉くなるのではなく、一つ柔らかくなりたい。
そう思っています。
もしかすると、本当に成熟するということは、何かをどんどん足していくことではなく、自分の中に増えてしまった「こうに決まっている」を、一つずつ手放していくことなのかもしれません。
若い頃は、何者かになるために学ぶ。でもあるところからは、何者かになった自分に、縛られないために学ぶ。僕は、そんな気がしています。
だから僕はこれからも、初心者に教わりたい。子どもに教わりたい。自分より若い人に教わりたい。昨日まで知らなかったものに、驚いていたい。そして何歳になっても、「なるほど。そんな考え方があるんだ」と、人の言葉に関心を持てる人でいたい。
知識は増えているのに、心の中の空席も増えている。そんな年の取り方ができたら、僕は格好いいと思う。
長く学んだ人ほど、腰が低い。長く続けた人ほど、人に関心を持つ。たくさん知っている人ほど、「僕も、まだ知らない事が多いんですよ」と自然に言える。
僕が目指したいのは、そんな人です。
学ぶことによって、硬くなるのではなく、学ぶたびに、少しずつ柔らかくなる。正しさを増やすためではなく、受け取れるものを増やすために学ぶ。人に勝つためではなく、人を理解するために学ぶ。
そして最後まで、「僕の知らない世界が、まだある」と面白がっていたい。
そういう先輩の背中を、僕はずっと目指しています。
知識は、いつか誰かに追い越される。でも、空席を持ち続けられる人だけは、何歳になっても、追い越されない。