燃えすぎていた私が、パニック発作で気づいた「休む設計」の話
夜明けから、ずっとこの席にいた。
夜明けから今この瞬間まで、パソコンの前に座り続けていた。窓の外が白み始めて、鳥が鳴き出して、世界が新しい一日を始めようとする時には、もうその席に座っていた。そのまま夜中までずっと座ったままだった。やめられなかった。
疲れていないわけじゃない。眠いか眠くないかで言えば、眠いわけでもなかった。正直、こういう時はいつもワクワクがある。楽しいと感じている。
これを情熱だと思っていた。でも最近、そうじゃないかもしれないと気づき始めている。
燃えすぎることにも、罪がある。
警報が鳴らない、それが一番怖い
苦痛があれば、人は逃げられる。骨が折れれば歩けない。高熱が出れば動けない。体は正直で、本当の限界を超えると必ずサインを出す。
でも燃えている時の消耗には、警報が鳴らない。気づいた時にはもう、深みにいる。溝が深くなっていて出られない感じ、と言う表現がしっくりくる。
僕はこれを、頭で知っているんじゃない。体で知っている。
26歳のある夏の事だった。
トラックを運転していた。自営業で運送業をしていた頃で、収入はとても良かった。でも当時の僕は、やりがいのない仕事を毎日こなしながら、それでも、その仕事のどこかに楽しみを見つけながらも、「何かが違う、、、」という悶々とした気持ちをどこかに抱えたまま、ずっと走り続けていた。睡眠も足りていなかった。心が疲弊しているのに、なぜかそれでも止まれなかった。
止まれない理由が、自分でも分からなかった。ただ動いていれば、考えなくて済んだ。止まった瞬間に、何かが崩れる気がしていた。だから走り続けた。
そんなある真夏の午後、もう少しで目的地という最後の左カーブを曲がった瞬間、急に強烈な不安感が身体を走り抜けた。次の瞬間、視界が外側から暗くなっていった。ガタガタと震え出した体をどうする事もできず、前を走る車に突っ込みそうになり急ブレーキを踏んだ。冷や汗がどっと溢れ出し、激しい動悸とめまいが同時に起きた。
「死んでしまう」と本気で思った。
それが、僕の最初のパニック発作だった。
その後の3年半は、生き地獄という言葉がそのまま当てはまる日々だった。薬を一切飲まずに克服すると決意したものの、毎日パニック発作に怯え、友達が一人また一人と離れていった。やがて誰とも会えなくなった。68キロあった体重が55キロまで落ちた。人の気持ちを知らない母からは、「あんた、そんなに痩せて羨ましいね」と言われた。毎晩必ずビルの屋上にぶら下がっていると言う悪夢にうなされ、自分の叫び声で飛び起きた。ビルが倒れていき地面スレスレで毎晩飛び起きた。本当に毎晩欠かす事なく悪夢を見た。
そんな状態になる前の僕には、警報が一切鳴らなかった。
燃えている最中の苦しさには、警報が鳴らない。それが一番怖いところだ。
「まだ足りない」という声は、悪意を持っていない
厄介なのは、この声が親切な顔をしてやってくる事だ。詐欺師は必ず親切な人という印象を最初に与えるかのように。
「もう少しだけやれば完成する」「ここで止まったら勿体無い」「休んでいる間にも時間は過ぎていく」
どれも嘘じゃない。全部、正しい。だから余計に始末が悪い。
悪意のある声なら無視できる。でもこの声は、自分の中の真面目な部分が語りかけてくるような顔をしている。だから人は従ってしまう。
しかも、この声は疲れれば疲れるほど大きくなる。判断力が落ちた状態で、一番正論に聞こえる声が鳴り響く。これほど厄介な罠はない。
僕はこの声に従うたびに、少しずつ自分の輪郭を失っていく気がする。最初は情熱だったものが、いつの間にか惰性になっている。うまくやらなければ、と言う気持ちが大きくなっていった。炎が何かを照らしているのか、ただ燃料を消費しているだけなのか、走り続けている間は判断できない。
そしてその行き着く先を、僕は知っている。あの夏の、トラックの中で経験した。
今の自分が、あの頃と同じ方向を向いている
夜明けの光の中で気づいた。
睡眠が足りていない。心が疲弊している。それでも止まれない。
これはあの頃と、まったく同じ状態だ。ワクワクしていても、過集中状態は麻薬中毒者が麻薬をしている時のような感覚なのだろう。
あの発作が来る前の僕も、こうだった。やりがいのない仕事を気づけば惰性でこなしながら、悶々とした何かを抱えたまま、止まれなかった。警報は鳴らなかった。気づいた時には、もう深みにいた。
人は同じ場所に落ちる。
一度落ちた穴でも、気づかなければまた落ちる。怖いのは穴の深さじゃない。穴に近づいている事に気づかない事だ。 今の僕は、その穴のすぐそばにいる。
だから今日、ここに書いている。書く事で、自分に気づかせるために。
意志で「やめる」のではなく、儀式として「休む」を設計する
意志で止めようとすると、必ず失敗する。
なぜか。「まだ足りない」という声は、意志よりも強いからだ。疲れていれば意志は弱くなる。追い込まれれば判断が鈍る。一番休む必要がある時に、一番意志が機能しなくなる。
これは意志が弱いとか強いとかの話じゃない。人間の構造の話だ。
だから仕組みに頼る必要がある。個人経営者の経営理念のようなものだ。
毎朝歯を磨く時、「今日は磨こうか、どうしようか」と悩む人はいない。それは儀式だからだ。考えなくても体が動く。意志を使わなくていい。
休む事も、同じレベルまで落とし込む必要がある。
「この時間になったら必ず終わる」「この作業が区切れたら席を立つ」をあらかじめ決めておく。感情が何と言おうと、仕組みが体を動かす。決める時間帯は、まだ余裕がある今のうちに決めておく。 疲れてから決めようとすると、また「まだ足りない」という声に負ける。
意志に頼るな。仕組みに頼れ。
これが、あの3年半の地獄から学んだ、一番大切な事の一つだ。
燃え続けたいなら、休む設計をしろ
僕はまた、あの頃と同じ方向を向いていた。それに気づけたのは、夜明けの光の中で、正直に自分を見たからだ。
燃える事を愛しているなら、燃え続けるための設計をしろ。
休む事は、諦める事じゃない。次に全力で燃えるための、燃料の補充だ。炎は、酸素がなければ消える。休みは、その酸素だ。
今日から、「この時間になったら必ず終わる」という儀式をひとつだけ作ってほしい。
意志に頼るな。仕組みに頼れ。 うん、これだ。