恐怖に抵抗するから苦しい。委ねたとき、生きづらさは溶けていく
今日はこちら、雨が降ってきました。少し肌寒い一日です。
三寒四温。自然は、いつも正直です。暖かさの前には必ず揺り戻しがある。夏も冬も、突然やってくるわけじゃない。グラデーションの中を、季節はゆっくりと歩いてきます。
僕は人も、同じだと思っています。
ある日突然、変わった人間など見たことがありません。気づけば変わっていた——それが本当のところではないでしょうか。三歩進んで二歩下がりながら、薄皮を一枚ずつ剥くように。そうして気づいたら、窓の外の景色が変わっている。
僕自身、薄皮が一枚剥がれた瞬間を、今でもはっきりと覚えている出来事があります。13歳の夏の話をさせてください。
友達とブラックバス釣りの約束をして、夜中の3時半に目覚まし時計の音で、無理やり目を覚ました夜明け前のことでした。体がまだ眠りから抜けきっていないところに、無理やり脳だけを起こそうとしたからなのか、僕は生まれて初めての「金縛り」にあいました。体は一切動かず、動かそうとするたびに耳の中で耳鳴りがキーンと鳴り響く。家族に助けを呼んでいるつもりでも、実際には声すら出ていなかったんです。あれほどの恐怖を、僕はそれまで知りませんでした。その日から、僕は金縛りに対する恐怖心が一気に高まってしまい、金縛りの恐怖に怯えるようになってしまったんです。すると、そんな恐怖感が誘き寄せたのか、その日を境に、僕の思いと裏腹に金縛りは繰り返しやってくるようになってしまったんです。そのたびに僕は同じように恐怖の中、必死で抵抗し、そのたびにやはり耳鳴りは強くなっていきました。1年以上、その繰り返しで僕は金縛りの恐怖に完全に取り憑かれてしまいました。何をしても解けない。抵抗すればするほど、悪化していく。そんな出口のない恐怖の時間が続きました。
ある日、僕はもう疲れ果てて、抵抗するのをやめてみたんです。恐怖は何も変わっていません。とてつもなく圧倒的に怖かった。それでも、抵抗すれば強くなるだけだと、体でもう分かっていたから、覚悟を決めて、ただ委ねてみたんです。最初は何度も、やっぱり怖くて無抵抗でいられなくなってしまいました。それからも、金縛りは容赦無く襲ってくる中、完全に無抵抗でピークを超えた日がありました。そうしたら、いつもより早く、耳鳴りが小さくなっていったんです。
僕は驚いて、完全に止まる前に体を動かしてみたら、また耳鳴りは大きくなりました。「ああ、抵抗するから強くなるんだ。」そう気づいた僕は、もう一度、委ねてみました。降伏したんです。すると、あっけなく金縛りから解放されました。
何度か試すうちに、僕の中で恐怖は100からゼロになりました。気づけば、あれから1年が過ぎていました。14歳になった頃にはゼロを通り越して、しまいには「遊び」にまでなっていったんです。あれだけ恐怖に慄いていたのにです。わざと体を動かして耳鳴りを大きくして、また委ねて小さくする。そんな遊びができるようになったころ、金縛り自体が、僕のところに二度と来なくなってしまいました。
「抵抗すれば、強くなる。委ねれば、溶けていく。」
これは、精神論でも根性論でもありません。恐怖という感情そのものの性質です。恐怖は、見つめられることを嫌う。皮肉なことに、抵抗という行為こそが、恐怖に一番の栄養を与えてしまうんです。抵抗とは執着です。執着があるから抵抗してしまうんです。委ねるということは、そこにそのままあって良い、と許す事です。受容する事です。
その構造に、僕は14歳で出会っていました。ただ、正直に言うと、その時の僕は、それが金縛り以外の場所でも使える法則だとは、全く思ってもいませんでした。だから、そこからさらに30年以上、同じ構造を、形を変えて何度も経験し直すことになります。
何が原因かは、ここでは触れませんが、僕は幼いころからずっと、PTSDのフラッシュバックを起こし、絶望と不安を抱えて生きてきました。47歳になっても、夜中に突然、得体の知れない恐怖感に苛まれ、心臓が暴れ出すことがザラにありました。何百回経験しても慣れることはありませんでした。「今日が人生最後の日かもしれない」そんな緊張感の中でしか、僕は自分を保てなかったんです。
そんな人生に、僕はもう嫌気がさしていました。ある時から、「なるようになれ!」と覚悟を決めました。夜中に目が覚めて心臓が暴れ出したとき、その恐怖から逃げずに、真正面から感じ切ってやる。そう決めたものの、実際には、金縛りを克服した時と同様、一度でうまくいったわけではありませんでした。何度、あまりの恐怖に意識を持っていかれたか分かりません。数え切れないほど失敗して、その場でベッドから飛び起きて、飲み込まれないように変な顔をしたり、変な踊りを踊ったりして、無理やり体に意識を逸らして、恐怖に背を向けて逃げたことも、何度もありました。うまくいったと思っては、また元に戻される。その繰り返しの中で、それでも僕は、何日も何日も、打席に立ち続けました。
そして、ただただ観察し続けることに成功し、最後まで感じ切れたとき、僕はようやく知りました。「不安の中でしか生きられないと思い込んでいたけれど、不安を感じ続けなくとも生きられるんだ」ということを。
14歳の時の金縛りと、47歳のあの夜。この二つは、僕の中でそっくりな構造をしています。ただ、14歳のときはまだ、それが人生全体に応用できる法則だとは知りませんでした。だから僕は、似たような場面を、その後も何度も、繰り返し経験していくしかなかったんです。それが、薄皮が一枚ずつ剥がれていく、ということの正体だったんだと、今なら思います。
そしてこの構造は、過去の話では終わりません。今も、日常の中で生き続けています。
僕の妻はADHDの特性を持っていて、何かに集中すると、僕のことがまるで視界から消えてしまったように感じることがあります。今でも、ほぼ毎日のように、蔑ろにされているような感覚が湧いてくる。
そんな感情に気付いたとき、僕はこうします。まず、「今、自分は嫌な気分だ。見捨てられ恐怖を感じている」と、ただ気づく。次に、その感覚が体のどこにあるかを探す。そして、「良い悪い」を一切ジャッジせず、ただその感覚に意識を向け続ける。感情というのは、たぶん、ただ「気づいてもらう」ことを待っているだけなんだと思います。
もちろん、一回でうまくいったわけではありません。何度、怒りや不安に執着してそこから離れられなくなったことか分かりません。それでも、金縛りやトラウマの感情を感じ切った経験があったからこそ、以前よりずっと早く、抵抗せずに観察できるようになっていました。何度か失敗しながらも、最後には、抵抗せずに、ただ観察していると、いつの間にか、嫌な気分がなくなっている。
14歳の金縛りも、47歳のあの夜も、今日の奥さんとのやりとりも、全部同じ構造でした。抵抗すれば強くなり、委ねれば溶けていく。恐怖は、見つめられることを嫌う。
成長とは、事件ではなく、「季節」です。
焦らなくていい。三寒四温のようなものです。一枚の薄皮が剥がれるのに、時に30年かかることもある。それでも、剥がれ続けている限り、僕たちは変わり続けているんだと思います。
季節は、決して急がない。けれど、止まってもいない。