心を変えようとするほど、心は変わらなかった。生きづらさの中で気づいた「弱いまま動く」という選択
精神で、精神は変えられない。心で、心は強くならない。
これは、僕がこれまでの人生で何度も失敗を繰り返した末に、行き着いた答えの一つです。
正直に言えば、この答えに行き着いた今でも、僕は同じ失敗を繰り返してしまうことがあります。気がつくと、また心の問題を、心だけで何とかしようとしているんです。
「もっと強くならなければ」「気持ちを切り替えよう」「こんなことで負けてはいけない」。そうやって、自分の内面に働きかけることだけで、自分を変えようとしてしまう。これは「そうしよう」と意識して選んでいるというより、ほとんど自動的に起きている思考なんだと思います。
僕は40代の半ばを過ぎた頃、ようやくそのことに気づきました。それまでの僕はずっと、心のことは心だけで何とかするものだと思っていました。というより、それを疑ったことすらありませんでした。苦しいなら気持ちを切り替えなければいけない。弱いなら強くならなければいけない。怖いなら怖がらないようにしなければいけない。きっと、多くの人が無意識のうちにやっていることではないでしょうか。
でも僕は、ある時から、この自動的な思考だけに従っていても、人はなかなか変われないんじゃないか。そう考えるようになりました。なぜなら僕自身、「強くなろう」と思って強くなれたことが、人生の中で一度もなかったからです。むしろ、強くなろうと力めば力むほど、自分の弱さばかりが際立って見えて、余計に自分を追い詰めていきました。
弱さに気づく。「弱い自分ではダメだ」と思う。だから「もっと強くならなければ」と思う。怖さについても同じでした。怖いと感じれば「怖がっている自分ではダメだ」と思う。だから「怖がらないようにしなければ」と思う。
でも、強くなろうと思ったからといって、弱さが消えるわけではありません。怖がらないようにしようと思ったからといって、怖さが消えるわけでもありません。それでも現実では、人と会わなければならない。話さなければならない。生きていかなければならない。だから僕は、強い人のように振る舞ったり、怖くないような顔をしたりしていました。いわば「強いふり」や「平気なふり」です。
「ふりをする」ということ自体は、一つの行動です。でも今振り返ると、僕にとって大きな問題だったのは、行動したかどうかではなく、その行動がどんな内側から生まれていたのか、そこだったんだと思います。
当時の僕の「強いふり」は、「弱い自分ではダメだ」というところから始まっていました。「平気なふり」も、「怖がっている自分ではダメだ」というところから始まっていました。つまり、弱さや怖さを受け入れて行動していたのではなく、それを隠すために行動していたんです。
だから、どれだけ強そうに振る舞っていても、自分だけは知っています。「本当は怖い」「本当は弱い」「これは、ふりをしているだけだ」。すると今度は、「弱い自分がバレないだろうか」「怖がっていることを見抜かれないだろうか」という、新しい不安が生まれてくる。
強いふりをすればするほど、その裏側で「本当の自分は弱い」という思いが、むしろ強くなっていきました。強くなろうとしているのに、自分の弱さを証明し続けている。怖さをなくそうとしているのに、自分の怖さを確認し続けている。今思えば、そんな矛盾したことを、僕は長い間繰り返していたんだと思います。
だから、僕に本当に必要だったのは、弱い自分を強い自分に置き換えることではありませんでした。むしろ逆でした。「弱いままでもいい」。怖さについても同じです。「怖いままでもいい」。怖さを消してから動こうとするのではなく、怖いという自分の感情を知った上で、その感情から逃げずに動いてみる。
僕に実際の変化が起き始めたのは、そこからでした。「弱くてはいけない。だから強く振る舞おう」ではなく、「僕は弱い。弱いままでいいから、それでもやってみよう。もし逃げてしまったとしても、それでいい」。「怖がってはいけない。だから平気なふりをしよう」ではなく、「僕は怖い。怖いままでいい。それでも一歩だけ進んでみよう。もし逃げてしまったとしても、それでいい」。この違いは、僕にとって、とても大きなものでした。
「弱い事はいけない」「怖がってはいけない」という前提で行動すると、うまくできなかった時、それまで以上に自分を否定することになります。逃げてしまえば「やっぱり自分は弱い」。怖がってしまえば「やっぱり自分は怖がりだ」。そうやって、勇気を出して挑戦したはずなのに、結果によってかえって自分の弱さを証明し、自己否定を強めてしまう。
でも、「逃げてしまってもいい」「怖がってしまってもいい」という前提に立つと、同じ挑戦でも、まったく違うものになります。できたか、できなかったかだけで、自分を裁かなくてよくなるんです。逃げてしまったとしても「それでも、やってみようとした」。怖くて何もできなかったとしても「それでも、ここまで来た」。結果ではなく、挑戦したことそのものを自分で認められるようになる。
怖くても、人と話してみる。不安でも、外へ出てみる。逃げたくても、少しだけその場に留まってみる。そして、本当に無理なら逃げたっていい。一見すると、「怖いけれど行動する」という意味では、以前の僕と同じように見えるかもしれません。でも、僕の中ではまったく違うものでした。前者は、今の自分を否定し、別の自分になろうとする行動です。後者は、今の自分を認め、その自分のままで一歩を踏み出す行動です。
「強いふり」をするのではなく、弱い自分を連れたまま行動する。「平気なふり」をするのではなく、怖がっている自分を連れたまま一歩を踏み出す。すると不思議なことに、「強くなろう」としていた時には手に入らなかったものが、少しずつ自分の中に生まれてきました。弱さがなくなったわけではありません。怖さがなくなったわけでもありません。それでも、弱いまま動ける。怖いまま進める。そうなった時、結果として僕は、以前よりもずっと「強い人」と同じように、その場に在ることができるようになっていったんです。
弱さを消そうとする前に、自分の弱さを知る。怖がらないようにする前に、自分はいったい何を怖がっているのかを知る。そして、それをすぐに「直さなければならないもの」にしない。無理に別の自分になろうとする前に、まず、今ここにいる自分を、そのまま認識する。僕にとっては、そこが出発点でした。
弱さを認めることは、弱さに従うことではありません。怖さを認めることも、怖さに負けることではありません。弱いことを認めた上で、それでも動く。怖いことを認めた上で、それでも一歩を踏み出す。僕が長い時間をかけて、薄皮を一枚ずつ剥がすように少しずつ知ったのは、その二つはまったく別のことだ、ということでした。
だからこそ僕は、こう考えています。
内側が先で、外側は後。
これは今でも、大前提だと思っています。心がぐちゃぐちゃのまま、何も見つめず、ただ闇雲に外の世界へ飛び出せばいいとは思いません。だからこそ僕は、内省を積み重ねてきました。自分は何を怖がっているのか。なぜ、こんなふうに考えるのか。何に傷つき、何を守ろうとしているのか。自分の内側と向き合う時間を、大切にしてきたつもりです。
ただ、その一方で、内省だけでは、どこかで限界が来ることも感じるようになりました。頭の中だけで行う内省は、言ってみれば「体験を伴っていない経験」のようなものだからです。実際の身体感覚も、その場の空気も、予想外の出来事もない。頭の中で何度もシミュレーションを繰り返し、そこから概念や教訓を得ていく。それ自体には、もちろん意味があります。でも、どれだけ考えても、実際に行動してみなければ分からないことが、必ずあります。
自転車に一度も乗ったことがない人が、頭の中で何百回、自転車に乗るところを想像しても、実際にペダルを踏み込んだ時の感覚までは分かりません。ハンドルが思ったよりふらつくこと。倒れそうになった瞬間、反射的に体が動くこと。そしてある瞬間、突然「あ、乗れた」と体で理解すること。それは、考えるだけでは手に入らないものです。人間の内側と外側も、きっと同じです。二つの車輪が揃って初めて前へ進める、自転車のようなものなんだと思います。
僕自身、それを強烈に経験したことがあります。パニック発作に苦しみ、外へ出ることさえ怖くなっていた頃のことです。当時26歳頃でした。「もし発作が来ても、今ここに意識を向ければいい」「これは死ぬものではない」「逃げずに、そのままやり過ごせばいい」。何百回と自分に言い聞かせました。でも、そこに実感を伴わない空想の経験だけでは、どうにもならない場面がありました。
車の運転は、すでに克服できていました。当時、自営業でトラックに乗って配送業の仕事をしていたので、発作が来ても、どうしても耐えられなくなれば路肩に停めてトラックから降りればいい。その「逃げ道」があるだけで、何度もリハビリを繰り返すことができました。長い時間をかけて、車には平気で元通り乗れるようになりました。
でも、電車は違いました。ドアが閉まったら、次の駅まで降りられない。僕にとって、その事実はとてつもなく大きかったんです。だから電車に乗る練習だけは、ずっと先延ばしにしていました。乗らなくても生活はできる。「今はまだいい」。そう自分に言い訳をしながら、ずっと逃げていたんです。
そして十年ほど経った頃、電車に乗らなければならない理由ができました。その時の僕は、心の準備ならできているつもりでした。発作が来たら「今ここ」に意識を向ければいい。頭の中では、何百回も練習していました。日常生活の中でもパニック発作は、ほぼ起きなくなっていました。
ところが。実際に電車に乗り、目の前でドアが閉まった瞬間、それまで頭の中で積み重ねてきたものが、ほとんど意味をなさなくなりました。今でもよく覚えているのですが、できたのは深呼吸くらいでした。心臓が、自分のものではないように暴れ出す。「今ここに意識を向けなければ」。そう思えば思うほど、意識は「今ここ」から逃げていく。「あれ?パニック発作がまた起きるの?」と、「今ここ」からまだ起きてもいない未来に自動的に意識が行ってしまいました。まるで、「レモンのことを考えるな」と言われた瞬間、頭の中がレモンでいっぱいになってしまうのと同じでした。頭では分かっている。分かっているのに、体はまるで別の生き物のように、勝手に恐怖へ飲み込まれていきました。そして、次の駅で降りたんです。
最初は、降りた駅のホームで落胆しました。発作が静まるのを待って、次に来た電車に乗ることも怖くてできず、結局、目的地の自分の店まで3時間かけて歩いていきました。次にチャレンジした時は、2つ先の駅で降りました。あの距離をまた歩くのは嫌だと思い、次の電車を待ちました。でも1時間に2本しか来ません。1本目に乗る事ができず、結局その日も歩いて店に行きました。そんなことを何度も繰り返しました。途中から、電車を降りても次の電車にまた乗る事ができるようになりました。でも、怖くなって、また降りる。それを何度繰り返したか分かりません。
そこで僕は、初めて体で理解したんです。いくら内側を見つめても、見つめるだけでは景色は変わらない。土をどれだけ丁寧に耕しても、種を蒔かなければ、そこから何かが育つことはない。内省の次に人を変えるのは、外の世界なんだと思います。他者との出会い。自分の思い通りにならない出来事。予想もしなかった現実。時には、現実に思い切り「どつかれる」ような経験。そういうものが肥料となって、外側から内側が揺さぶられ、また新しい自分が作られていく。
僕には、対人恐怖に苦しんだ時期もありました。一番怖かったのは、初対面の人ではありませんでした。仲の良い友達や先輩とすら、普通に話せなくなってしまったことです。それまで何も考えずにできていたことが、ある日を境にできなくなる。その恐怖は、経験したことのない人に説明するのが難しいです。
何が一番怖かったかというと、それまで自分が「どうやって人と喋っていたのか」、その感覚そのものが分からなくなってしまったことでした。基準が消えてしまったんです。基準がなければ、どこに向かって喋ればいいのかも分からない。戻る場所がないんです。目も合わせられない。話しかけられても、何をどう返せばいいのか分からず、頭の中が真っ白になる。
ある日、仲の良い先輩と話していた時のことです。いつもなら自然にできていた返し方が分からず、ぎこちなく恐る恐る喋っていると、先輩が言いました。
「お前、いつもと全然違うな。いつも通り話せばいいだろ。どうしちゃったんだ? よそよそしいな」
その一言で、僕はさらに自分を追い込んでしまいました。「ああ、やっぱりいつもと違うんだ」「普通にできていないんだ」。そう思えば思うほど、ますますドツボにハマって普通に喋れなくなりました。
そこから抜け出すために僕が考えたことは、たった一つでした。逃げないこと。難しい理屈をこねる余裕なんてありませんでした。ただ、逃げない。それだけを決めました。
路面店に飛び込んで、店員さんに話しかける。限界が来たら、店を出る。そして、また次の店に入る。最初の一軒に入った時、心臓がどれだけ暴れていたか、今でも思い出せます。息が浅くなり、視界がすっと狭くなって、目の前にいる店員さんの顔さえまともに見られない。頭では、こう返事をすればいいと分かっている。分かっているのに、その言葉に辿り着くまでに、発作が起きたらどうしよう、目を見られなかったらどうしよう、変な人だと思われたらどうしよう、うまく喋れなかったらどうしよう、そんな恐怖が次から次へと襲ってくる。結局、その場から逃げ出したくなる。
実際、うまく話せず、逃げるように店を出たことも、一度や二度ではありませんでした。それでも、また次の店の前に立つ。そして、また入る。それを、何ヶ月間も繰り返しました。僕のことを何も知らない人に、レジで自分から質問する。相手が答えてくれたら、それに何かを返す。ただ、それだけです。その泥臭い反復の中で、失ってしまった「人と話す感覚」を、新しい自分の型として、少しずつ組み直していきました。
かっこいい話では、まったくありません。ある日突然、恐怖が消えたわけでもない。克服した瞬間に、ドラマチックな音楽が流れたわけでもない。ただ、店に入って、出る。また入って、また出る。それを数えきれないほど繰り返しただけです。でも今振り返ると、僕を変えたのは、「強くなろう」と念じ続けたことではありませんでした。怖いまま、体を動かしたことでした。
もう一つ、思い出した出来事があります。引きこもっていた頃、あまりの自信のなさに、自信をつけようと思い、「1年間休まず、毎日ジョギングする」と決めたことがありました。「絶対に、1日も休まず1年間走る」。そう決意していたんです。それから6日後のことでした。走りに行こうと外を見ると、大雪が降っていました。その瞬間、自分の中で「走らなくても良い言い訳」を次々に考えている自分に気づいたんです。「こんな大雪なんだから走れない」「道路が凍っているから走れない」。そう思うと、走りたくない気持ちが圧倒的に上回ってしまいます。
でも、その日の僕はそれまでの僕と少し違いました。「こんな事だから俺は、こんな状況に陥ったんだろ」。そう思い、そのままジーンズとトレーナーという格好で外に出て、走り出してみたんです。すると、頭の中で思っていたよりも、遥かに簡単に走れました。大雪が顔に降りかかっていても、足元が所々凍っていても、走れる。複雑に考えていたのは、頭の中、心の中だけだったんです。その日、僕はいつもの倍の距離を走って家に帰り、なんとも言えない充実感を感じました。それ以降、大雨や台風でも一切躊躇することなく外に出て走れるようになり、目標を遥かに超える「毎日」を走ることができたんです。心の中と、実際に行動してみなければ分からない現実には、確かな「差」があるんです。その差を実感することでしか分からないことが、必ずあるんです。
動く前に、完璧な心の準備を整えようとしても、いつまで経っても、その日は来ないことが多いです。だから、心が整ってから動くのではなく、あるところまで内側を整えたら、今度は体を先に外へ出してみる。すると不思議なことに、遅れて心がついてくることがある。行動もまた、心を作っているんです。
朝、眠くても起きる。雨が降っていても、ゴミを拾う。人と話すのが怖くても、店に入ってみる。電車が怖くても、一駅だけ乗ってみる。気分が乗ったから動くのではなく、気分が乗らない時にも、できる範囲で体を動かしてみる。自分の気分を最優先するのではなく、やるべき目的を最優先するんです。その一回一回は、あまりにも小さくて、その場では何も変わっていないように見えるかもしれません。でも、その小さな行動から得た現実が、今度は自分の内側へ戻ってくる。「あれ? 思っていたほどではなかった」「今日は駄目だった。でも、ここまではできた」「怖かったけれど、逃げずにいられた」。そうやって外側で得た現実が、内側にあった思い込みを少しずつ書き換えていく。
だから僕は、「内側が先で、外側は後」という考えと、「まず動く」という考えは、矛盾していないと思っています。内省は、土を耕すこと。行動は、そこに種を蒔くこと。そして現実から返ってくる経験は、水や光のようなものです。耕すだけでは、何も育たない。種を蒔くだけでも、うまく育たない。内省して、動く。動いたことで感じたものを、また内省する。そして、また動く。
精神で、精神は変えられない。心で、心は強くならない。
心を変えようと、心だけを握りしめるのではなく、まず自分の内側を見つめる。そして、あるところまで耕したら、今度は外の世界へ体を動かしてみる。そこで傷ついたり、失敗したり、思っていたのと全然違う現実に出会ったりしながら、また自分の内側へ戻ってくる。その往復が、結果として心を変えていく。
僕にとって「強くなる」というのは、強い心を手に入れてから行動できるようになることではありません。怖いままでも、一歩だけ動いてみること。弱い自分を消してから進むのではなく、弱い自分も一緒に連れて、外の世界へ出てみること。そうやって積み重ねた行動の後ろから、いつの間にか心がついてくる。
内省で耕した土に、行動という種を蒔く。そして、その行動から得た現実を、もう一度、自分の内側へ持ち帰る。もしかすると人を変えるというのは、その繰り返しなのかもしれません。
耕すことと、種を蒔くこと。そのどちらか一方だけでは、何も育たない。