「ま、いっか」に勝つ唯一の方法は、意志じゃなく習慣だった
習慣は、意志より強くないといけない。
でも、それを「言葉」で渡そうとすると、ほとんど失敗する。
朝起きたら雨だった。
布団の中で目が覚めた瞬間、頭の中に「ま、いっか」が浮かんだ。
今日もゴミ拾いだ。ゴミ拾い100日チャレンジを続けている。でも雨だった。布団は温かかった。体はまだ眠りの余韻の中にいた。
「ま、いっか」は、僕の中で最も古い言葉のひとつだ。
人は放っておけば、楽な方に流れる。それは悪じゃない、ただの自然だと思う。
川の水が低いところへ流れるように、人も負荷の少ない方向へ向かう。これは意志の弱さじゃなくて、生物としての仕様だ。だからこそ、習慣は意志より強くないといけない。
15歳の夏、僕は「習慣」を叩き込まれた場所にいた。
更生施設。
非行や不登校を繰り返した中学生が送られてくる、全寮制の施設。山に囲まれた広い敷地に、8つの寮が点在していた。
毎朝6時、叫ぶ声で起こされた。「6時だ起きろ!」
寮生は全員、布団から飛び起きる。ダラダラしている時間はない。起きなければ施設内にある学校に遅れるだけじゃない。寮長先生から厳しいお仕置きが待っている。2度叱られたら後はない。そんな時は「よし!起きるか!」と、眠いけど一気に起きるに限る。
起きたら、ローテーションで当番の仕事をこなしていく。床掃除、部屋の雑巾がけ、洗濯物の取り込み、風呂掃除、台所掃除、ゴミ当番、ゴミ焼きやし……。
これを寮生たちが当番制で分担してやっていく。毎日、同じことの繰り返しで、それを全員がこなしていった。最初は大変だった。でも、2週間もすると自然にできるようになってきた。
体が覚える。
これが「習慣の正体」だと、あの頃の僕にはまだわからなかった。ただこなしていた。でも大人になってから気づいた。あの施設で身についたことが、今でも自分の中に生きている。
朝、顔を洗って歯を磨いたら、寮長先生に報告しに行く。「おはようございます!足立です!歯磨き、終わりました!」すると、向こうから「よし!」という返事が来る。毎日続けた。規則だった。自分の仕事が終わると、必ず寮長先生の部屋の前に行って大声で報告した。「足立です!雑巾がけ、終わりました!」
この「報告する習慣」が、今の仕事に直結しているとは、その時は思いもしなかった。
「習慣」と「罰」は、一見似ている。でも本質が違う。
更生施設での生活を振り返ると、外から見れば「管理されていた」ように見えるかもしれない。実際、あの頃の僕も最初はそう感じた。やらされている、流れに乗っているだけ、という感覚。
でも、ある日気づいたことがある。
同じ施設に入っていて、脱走を繰り返す子がいた。捕まっては戻ってくる。また脱走する。その繰り返し。僕は彼を見ながら、「なぜ脱走するのか」よりも、「なぜ俺は脱走したくないのか」という方が不思議だった。なぜなら、僕はその施設での生活が苦しくていつ出られるのかが不安だったからだ。でも僕はある時、心が決まった瞬間があった。
「もう、ここでずっと生活しよう」と覚悟を決めた時、すべての不安が嘘のように消えた。
心配なことや嫌なことに目を向けているうちは、それはどんどん大きくなっていくようだった。そうじゃなく、それを受け入れて、覚悟した時、不安と恐怖は消えて無くなるようだった。消えるのではなく、気にならなくなるのだった。
これが、僕の人生で最初に体得した「覚悟の作用」だった。
「やらされる」のか「自らやる」では、自分の中に沸き上がる感情に、雲泥の違いがあるはずだ。
排水溝が教えてくれたこと
更生施設での生活の中で、もうひとつ大きなことを学んだ。
入って1ヶ月が経った、真冬の夜。事件が起きた。
僕のいる5寮のトイレの排水管が壊れて、トイレが流れなくなってしまったのだ。寮長先生と共に、寮生全員の10人で5寮の裏手に回った。浄化槽のふたを開けて、中をみんなで覗き込んだ。「おい、この中のどこかが詰まってるぞ」と寮長先生が、排水管の中を懐中電灯で照らしながら言った。
そこは、まさに汚水が詰まり、溢れ出そうとしていた。「誰かここに入って詰まっているものを取れ」寮長先生は笑いながらそう言った。誰もお互いの顔を見合わせて、誰一人自ら率先して排水管に入る奴は来なかった。
辺りは吹雪き下で刺すような寒さで体中が痛い。
すると寮長先生が言った。「よし、じゃあジャンケンで決めるか!」一斉に「えっ………?!」と自分が負けたらどうしようかと想像しているようだった、そのだ。一人が言った。「俺、入ります!」周りのみんなは一言黙り返って、その言葉を言い放った人物を一斉に見た。「おぁ!すごいなお前!みんな見倣え!この根性を!よし!じゃあ、みんなで足立を支えろ!!!」そうだ、入ると言ったのは僕だった。
僕は、みんながジャンケンして、誰かが負けてイヤイヤ浄化槽に入るのを見てるのも嫌だったし、何よりも一番の理由は僕はこの更生施設のみんなに恩返しがしたかったからだった。
僕は自分の体にロープを巻いてみんなに持ってもらいながら浄化槽の中に足からズブズブとタラップを伝って入って行った。うんちまみれの汚水のお風呂気分に最高に気持ち悪かった。
でも、みんなが必死で僕を支えてくれていた。一つになれた気がした。ビニール管が吸い付いていたので、それを取り除こうとしたが、手にはめていた軍手が邪魔でなかなか思うようにビニールが取れない。軍手の意味もまったく無い。軍手を外して再びビニールを取り除くと、「ギュルギュルギュル…!!」と、愉快な音を立てて、満タンだった汚水が愉快な音で排水管の中に流れていった。「おぉ!!!」という歓声が沸き上がった。
僕が排水管に入っていた約5分間、極寒の寒空の中、誰一人として寒そうにしていなかった。みんなに火が点いていたみたいだった。
「おい!お前ら!よく見ろよ!これが勇気のある奴の行動だ!……おい、早く引き上げて足立を熱い風呂に入れてやれ!!!」そうだ、みんなが一つになった瞬間だった。
僕が排水管から極寒の地上に上がると、なぜだか「今、生きている!」という気持ちになった。
人が嫌がっていることでも、自分から率先して挑む時には、決してイヤな気持ちにはならない、という大きなことを学ぶことができた。
今朝の雨。布団の中で考えたこと。
あの浄化槽の話を、なぜ僕はゴミ拾いをしながら思い出したのか。
雨の中、傘を差して歩きながら、濡れた地面に落ちているゴミをつまんでいた。冷たかった。面倒くさかった。なぜこんなことをしているのか、一瞬でもそう思った。
でもその後、すぐに気づいた。
あの夜と、今日の朝は、構造が同じだ。
「やりたくない」という気持ちが先に来る。そこに「ま、いっか」が入り込む余地がある。でも、もし僕が毎回それを選んでいたら、今日の自分はいない。100日チャレンジをしている自分もいない。子供たちに「ゴミを拾おう」と言える自分もいない。
「言葉で渡せるものと、渡せないものがある」
僕には子供たちがいる。
この小さな習慣を、彼らに渡したいと思っている。でも、ここが難しい。
「言葉で渡した倫理は、借り物になる。自分の経験を通して辿り着いたものだけが、本当に自分のものになる。だから僕は、言葉で子供に渡そうとするのをやめた。ただ、雨の中でゴミを拾う姿を見せることにした。」
自分の経験を通して「どんな人間でいたいか」と問い、自ら辿り着いたものだけが、本当に自分のものになる。
だから、僕がゴミを拾うのを見せることしかできない。子供が「なんでパパそんなことするの?」と聞いてきた時に、こう言えればいい。
「自分との約束だから雨の中でも、やるんだよ」
押し付けにならないために。
愛とエゴの境界線は、いつも霧の中にある。でも僕は、一つだけ確かなことを知っている。自分が本気でやっている姿を見せることが、最も誠実な「継承」だということだ。
習慣の本質
習慣とは、何か。
意志ではない。感情でもない。それはもっと地味なものだ。
毎日、ほんの少しだけ、「ま、いっか」を上回ること。
それだけだ。100日のうち、雨の日が何日かあった。体が重い日もあった。布団の温度が完璧な朝もあった。それでも外に出た。ゴミを拾った。
なぜか?
義務感ではない。誰かに見せるためでもない。
習慣を守ることが、自分との約束を守ることだからだ。自分との約束を守り続けることだけが、本当の意味での「自信」に繋がる。自信とは、「自ら信じる」と書く。自らを信じるということは、自分で立てた自分との約束を守る事こそが自信に繋がると考えてのことだった。
更生施設で学んだ最大のこと。それは「目の前のことに真剣に取り組んでいる時、時間と状況を忘れることができる。それが集中力というものだった」ということだった。
汚水の排水管に入ったあの夜。寒さも忘れた。恐怖も消えた。「今、ここに集中する」という言葉が生まれた瞬間だった。
結局、家族全員、雨の中でゴミを拾った。
布団から出た。傘を差した。外に出た。
濡れた歩道に、タバコの吸い殻が落ちていた。空になったペットボトルがあった。コンビニのビニール袋が風に飛んでいた。一つずつ拾った。
近所のおじさんが通った。「雨なのに大変やね」と言った。
「楽しいです」と答えた。
おじさんは少し驚いた顔をして、でも少し嬉しそうに笑って行った。
言葉で伝えた倫理は、借り物になる。
行動で見せた倫理だけが、本物になる。
だから今日も、雨の中でゴミを拾った。
それが正しかったのか、押し付けだったのか、正直、まだわからない。子供に何かを継ごうとする時、愛とエゴの境界線は、いつも霧の中にある。
難しいな、と思う。